邪馬台国東遷

二つの邪馬台国

『魏志』倭人伝の
 邪馬台国とは何処?














ふたつの邪馬台国
考古学と過去の歴史は邪馬台国を証明する


ヤマト(神功皇后、武内宿禰)は、日田の小迫辻原遺跡を拠点として、九州邪馬台国を制圧していった

(纒向遺跡と同時期に発展した小迫辻原遺跡からは、ヤマト、出雲の土器が出土している)


邪馬台国は九州とヤマトの両方にあったというわかりやすい説である。
江戸時代に、本居頼長や新井白石がとなえた説で、本来の邪馬台国(ヤマト)は大和でるが、九州邪馬台国(山門)の卑弥呼が偽って魏に倭の女王であると・・。
一見、えっ? と思わせる説だけど、考古学的に布留式土器はヤマトから九州に広まりをみせているのだからヤマトが九州を制圧していった証拠にもつながる可能性は強い。であれば、ヤマト連合(ヤマト・吉備・出雲・東海)は九州を制圧するために、下関に拠点をつくり、じわじわ、豊の国や玄界灘勢力を勢力下に治めていった。

 ここで北部九州の勢力は次第に南下し、筑後川南岸へと追い込まれていったのではなかったか。そこで北部九州勢力は危機感をおぼえ、最後の手段として魏に頼ったのはないだろうか。筑後川南岸卑弥呼はじわじわ攻められて最後には魏にも見捨てられ、ヤマト勢力の支配下になった。

 ここで重要なのは、江戸時代など東国の権力者は九州を治めるに「徳川・豊臣」も日田を直轄地として治め九州各地統治している事実は邪馬台国とも重なる状況とは言えないか。
 もしヤマトが筑後川南岸をせめる時、日田と三輪山がキーワードになりそうである。三輪山は筑後平野を見渡せ日田は筑後川を舟でいっせいに奇襲攻撃ができ、日田は盆地的であり防衛上も安全な場所である。万が一攻撃されても、山国川を下れば中津へ逃げれるのでる。ヤマト勢力は日田に九州総司令部を置き、・・・・ここで神功皇后と武内宿禰・仲哀天皇も5年程度軍略しただろう。

ここで武内宿禰=天の日矛=浦島太郎(関裕二説)であれば、浦島太郎が向かった最終的場所は日田であり、迎えたのが龍神である「神功皇后」だとすれば。日田は龍宮城に相応しい土地となろう。日田盆地は周りを山に囲まれ残るは青い空。空を海と例えると面白い。日田には亀山と呼ばれる公園があるが、これは亀である。